教えのやさしい解説

大白法 577号
 
諸天善神(しょてんぜんじん)
「諸天善神」とは、大梵天王(だいぼんてんのう)・帝釈(たいしゃく)天王・大日(だいにち)天王・大月(だいがつ)天王・大明星(だいみょうじょう)天王等に代表される、法華経の行者を守護(しゅご)する善神をいいます。
 古来(こらい)、我が国において国を守る神として重んじられてきた天照大神・八幡大菩薩等も、仏法の意義の上から初めて諸天善神に含(ふく)まれるのです。

初座(しょざ)「諸天善神供養」の意義

「初座」は、諸天善神に対し、法味(ほうみ)を供(そな)えて威光(いこう)・勢力(せいりょく)の倍増(ばいぞう)を御祈念するものです。
 御観念文(ごかんねんもん)の中に、
「諸天昼夜(ちゅうや)。常為法故(じょういほうこ)。而衛護之(にえごし)」(法華経 三九六n)
という語(ご)が出てきますが、これは法華経『安楽行品(あんらくぎょうほん)』の経文(きょうもん)で、その内容は、釈尊の滅後(めつご)に法華経を弘通(ぐずう)する菩薩には常に諸天善神がつきしたがって、菩薩が法華経を説くのを側(そば)で聴(き)き、威光・勢力を増(ま)し、また説法を聴くために菩薩を守護する、という諸天善神の誓(ちか)いが示されています。
 私たちも大聖人の仏法を実践(じっせん)するならば、必ず側に諸天善神がつきしたがい、そして私たちの自行(じぎょう)・化他(けた)の題目を聴いて威光・勢力を増し、私たちを守護するということです。
 すなわち「初座」において東天(とうてん)に向かって読経(どきょう)するのは、東天より諸天善神を呼び、法味を供え、さらに「二座」以後の読経・唱題をも同座(どうざ)の諸天善神に聴かせて威光・勢力の倍増を祈念するという、本宗(ほんしゅう)伝統の化儀(けぎ)なのです。

「神天上法門(かみてんじょうほうもん)
 一国(いっこく)謗法の故(ゆえ)に善神は天上に帰られている

 諸天善神は法界(ほうかい)に実在(じつざい)しますが、ことさらに神だけを祀(まつ)った神社に詣(もう)でることを大聖人、日興(にっこう)上人は厳(げん)に禁(きん)じられています。
 大聖人は『立正安国論』に、
「世(よ)皆正(しょう)に背(そむ)き人悉(ことごと)く悪に帰(き)す。故に善神国を捨てゝ相(あい)(さ)り、聖人(しょうにん)所を辞(じ)して還(かえ)らず。是(これ)を以て魔来(き)たり鬼(き)来たり、災(さい)起こり難(なん)起こる」(御書 二三四n)
と仰せられ、法華経の法味を食(しょく)して威光・勢力を増す諸天善神は、邪宗(じゃしゅう)邪義(じゃぎ)の蔓延(まんえん)によって法味を味(あじ)わえないために天上(てんじょう)へ去り、逆に神社には魔神・鬼神が乱入(らんにゅう)して、国中に災(わざわ)いを起こし、そこに詣(もう)でる者は鬼神につかれて災いを招(まね)くのであると御指南されています。
 また日興上人は『五人所破(しょは)抄』に、日興上人以外の五老僧が、法華経の行者には善神が降(お)りてくるのだから、大聖人の門徒(もんと)は神社に詣でてもよいのだとする主張に対して、
 「何(なん)ぞ善神聖人(しょうにん)の誓願(せいがん)に背(そむ)き、新(あら)たに悪鬼乱入の社壇(しゃだん)に詣でんや」(同 一八八〇n)
と仰せになり、あくまでも『立正安国論』の御指南の通り、悪鬼乱入の神社に詣でることを厳禁(げんきん)されています。

神の本来の姿

 大聖人は『諌暁八幡抄(かんぎょうはちまんしょう)』に、
 「日本国一万一千三十七の寺(てら)並びに三千一百三十二社(しゃ)の神は国家安穏(あんのん)のためにあがめられて候。而(しか)るに其(そ)の寺々の別当(べっとう)等、其の社々(しゃじゃ)の神主(かんぬし)等は、みなみなあがむるところの本尊と神との御心(みこころ)に相違(そうい)せり。彼々の仏と神とは其の身(み)異体(いたい)なれども、其の心同心(どうしん)に法華経の守護神(しゅごしん)なり」(同 一五三八n)
と御指南され、あらゆる仏(ぶつ)・菩薩、あらゆる神が、すべて同心に法華経の守護神であることを明(あ)かされました。
 何故(なにゆえ)に、一切(いっさい)の仏・菩薩、また神々が法華経の守護神なのかと言えば、大聖人は『四条金吾許(がり)御文(ごもん)』に、
 「大事の法門一(ひと)つかき付けてまいらせ候(中略)法華経の人々は正直の法につき給(たも)ふ故に釈迦仏猶(なお)(これ)をまぼり給ふ。況(いわ)んや垂迹(すいじゃく)の八幡大菩薩争(いか)でか是をまぼり給はざるべき」(同 一五二三n・一五二五n)
と、諸天善神の一人である八幡大菩薩は釈尊の仮(かり)の姿であり、その故に法華経の行者を守護するのであると御指南されました。推(お)して考えれば、すべての神が、釈尊が仮に姿を顕(あらわ)したものと言うことができます。
 さらに『諸法実相抄(しょほうじっそうしょう)』には、
 「釈迦・多宝の二仏(にぶつ)と云ふも用(ゆう)の仏(ほとけ)なり。妙法蓮華経こそ本仏(ほんぶつ)にては御坐(おわ)し候へ」(同 六六五n)
と仰せられていることから拝せば、釈尊を含(ふく)む一切の仏・菩薩や神々は、南無妙法蓮華経の仏(ほとけ)、すなわち御本仏(ごほんぶつ)大聖人が衆生を救済するその用(はたら)きの一環(いっかん)として用きがあるのですから、大聖人の御意(ぎょい)を離(はな)れたところに善神の守護はないのです。

天善神は正直の行者を守護する

 大聖人は『四条金吾許御文』の結(むす)びに、
 「されば八幡大菩薩は不正直をにくみて天にのぼり給ふとも、法華経の行者を見ては争(いか)でか其の影をばをしみ給ふべき。我が一門は深く此(こ)の心を信ぜさせ給ふべし」(同 一五二五n)
と、八幡大菩薩は不正直を憎(にく)んで天に上(のぼ)られているが、私たちが正直の信心をもって仏道修行に励(はげ)むならば、常に諸天善神が頂(いただき)に影を落として守護してくださると御指南されています。
 正直の信心とは「正直捨(しゃ)方便(ほうべん)」、すなわち一切の邪宗・邪義の教えを捨て、大聖人の仏法が世の中に唯一(ゆいいつ)無二(むに)、絶対の仏法であるとの確信をもって信心に励むことです。そうすれば誰(だれ)しも必ず諸天善神の加護を受けることができるのです。